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(利尻島)「利尻で生まれてよかった」そう言ってほしい。利尻島民全員で描く、ひとつの絵。【another life. 国境離島の暮らしCH】

北海道の利尻島にて、役場の職員をしながら、しまづくり関連のNPOに所属している佐藤さん。「利尻島で生まれてよかった」と思う子どもを増やすため、島内の人だけでなく、島外の人も巻き込み様々な活動を行います。その原動力は、どこにあるのか。お話を伺いました。

チームで達成する気持ちよさ

北海道の離島、利尻島で生まれました。人口は5000人程度ですが、島内は利尻町と利尻富士町という二つの行政区に分かれています。僕は利尻富士町鴛泊で生まれて、小学6年生の時に利尻富士町鬼脇に引っ越しました。父は利尻富士町役場の職員でした。

父の口癖は「考えろ」でした。家で小屋を建てたり屋根の修理をしたりするとき、手伝いをするんですけど、必要だろうなと思って大工道具を持っていっても何も言わないんですよね。違う道具を持っていくと黙って道具を下に放られて。何度も繰り返して、やっと正しい道具を持っていくと、無言で作業を始めるんです。

とにかく厳しい親父でした。常に自分で考えるように言われ、指示を待つような人間には育てられませんでした。

小さい頃は人とつるむのがあまり好きではなくて、一人で海岸をフラフラしているような子どもでしたね。仲間と一緒に何かをやる面白さを覚えたのは、小学3年生でサッカーを始めてからでした。

サッカーは、恩師の先生のお陰でどんどんのめり込みました。先生には、練習中におもいっきり怒られたことがあります。その日、先生の家に招かれて、ご飯を食べたり、一緒にお風呂に入ったりしながら、先生のサッカーに対する思いを聞かされました。

怒られて腹を立てていたはずなのに、何歳になってもサッカーが好きで関わり続けている先生の気持ちを聞いている中に、すごく感動していました。完全に先生の術にハマってしまった感じです。

それからサッカーにどんどんのめり込み、利尻島内の大会で優勝することができました。キャプテンをやっていたので、チームを作り上げていく感覚が最高でしたね。仲間と一緒に何かを達成する気持ちよさが忘れられませんでした。

高校生になってもサッカーは続け、キャプテンに就任し、名寄大会で優勝し、北海道大会に出場しました。また、バンドもやり、全国のラジオ番組に出たり、札幌で弾き語りライブもしました。ただ、音楽では食っていけないのは分かっていましたし、将来は安定した仕事に就きたいと思って、公務員を目指しました。父も兄も公務員でしたから。安定した収入を得て、平凡な人生を送ろうと思いましたね。

利尻のためなら、立場なんて関係ない

高校卒業後、札幌にある公務員の専門学校に通い、1年で利尻島に戻りました。札幌の公務員になる道もありましたが、やっぱり利尻が好きだったんです。都会の遊びは1年で大体やったので、満足しました。

また、札幌はビジネスをするベースにはならないと思ったんですよね。大都市で働くよりも、利尻島くらいの規模感の場所で仕事をした方が、やりたいことを実現できると思ったんですよね。それで、利尻町の役場に就職しました。

最初は福祉課に配属され、その後、町営の砕石事業所の担当になったり、議会事務局の担当になったり、総務課税務係などを歴任し、役場職員として仕事の全体感を学びました。どの部署に所属しても、利尻島を良くしたいという思いは変わりません。その頃から部署はあまり関係ないと思っていましたね。

利尻には使われなくなった牧場があり、そこはカモメのすみかになっていました。カモメによって漁業が損害を受けていたので、対策に莫大な費用がかかっていました。牧草地に巨大な網をかけたりして、カモメが来ないようにするんですが、効果はあまりありませんでした。

それなら、牧場を再生すればいいじゃないかと思いました。ちょうど、他の地域で建設業者が牧場とレストランを経営してうまくいったという話を聞いていたので、地元の建設業者の社長に相談に行きました。

島の建設業者というのは、大抵が公共工事に依存しています。自分たちで何もしなければ、いつ公共工事の予算がなくなり、業績が悪化するか分かりません。資本があるうちに新しい事業を始めるのは、建設業者にとっても悪い話ではないんです。

それで、地元の建設会社の社長二人を連れて、同じ北海道の離島、焼尻島に視察に行きました。焼尻島は、羊牧場の経営に成功していたんです。

この視察は、役場の仕事としてではなく、自腹で行きました。役場の中で新しいことをするのは難しいと分かっていたので、権限のある社長二人と独自にやってしまおうと思ったんです。羊牧場なら初期コストがそこまで大きくありませんし、寒い利尻でもできると考えていました。

視察に行った夜、三人で酒を飲んでいると、社長の一人は涙を流しながら語り始めました。自分たちの会社は従業員に支えられてきたこと。いい年齢なので経営から退こうと考えていること。そのために次の事業展開を真剣に考えてから引き継ぎたいと思っていること。社長の胸の内を聞き、絶対に成功させたいと思いましたね。

しかし、視察の結果、200頭300頭程度の羊を飼っても、採算が取れないことが分かりました。羊は毛と内臓ばかりで、肉はほとんど取れないんです。やるなら1万頭規模にしなければなりませんが、利尻にはそこまで広大な牧草地はありません。

それで考えたのが、海の向こう側の稚内と連携して羊を育てることでした。子羊を利尻で育てた後、稚内の広大な土地で大人になるまで育てるんです。餌として利尻昆布や豊富な海の幸を使い、利尻ブランドの羊肉を作りたかったんですよね。

具体的な計画までまとめ上げたんですけど、最終的には役場からストップがかかりました。いろいろ考えると、やらない方がいいというのが判断でした。役場では実現できないことがあるし、自分の身分が足かせになることがあると学びましたね。

役場の顔と、NPOの顔を使い分ける

羊の他にも、島を良くするために色々な企画を考えました。ひとつはワインづくり。利尻島でぶどうを育てて、小樽のワイン工場で「利尻ワイン」を作ってもらおうとしました。

ただ、利尻でぶどうは量が取れるわけではなく、もしワインを作るなら、他の産地のぶどうも混ぜる必要があると言われました。そうすると「北海道ぶどうワイン」で利尻の名前は出ないということで、諦めました。

他にも、利尻島全部を漁村にしようという計画を立てたことがありました。そのプロジェクトを役場の企画係長に持っていくと、係長は泣きながら聞いてくれたんです。

内容はただの夢物語でひどいものだったんですけど、「こんなに島のことを考えてくれているやつがいて嬉しい」と言って涙を流してくれるわけです。うまくいかないことばかりでしたが、そうやって一緒に島のことを本気で思う人がいることが支えでした。

その係長は、島にある資源を利用して新たな経済活動を生み出そうとしていました。利尻島は昆布が有名で、沢山の種類の海藻がありましたが、そのほとんどはゴミとして打ち上げられ、処分するために費用がかかっていました。それで、海藻を押し花のようにする「海藻おしば」というアート作品を作り、資源の有効活用を始めました。

「海藻押し葉実行委員会」というものを立ち上げ、さらに、海藻押し葉を収益化するために、NPO法人を作り、僕もメンバーに入りました。海藻押し葉の普及以外にも様々な島おこしプロジェクトをやるようになりました。

役場の職員としては何かを実行しようと思ってもできない理由が多々あるので、民間として動く時はNPO職員としての顔、公で動く時は役場職員としての顔を使い、物事を実行するプロセスを学びました。

NPOを立上げた先輩は、58歳で早期退職してNPOの代表になりました。本気でまちづくりをしていくため、地域に深く入るために、NPO専属でやることにしたんです。

僕も、役場をやめることを考えなかったわけではありません。役場ではできないことも多かったですから。でも、役場にしかできないこともあると考えているので、自分は役場の中の存在として、いろんな人を繋ぐ仕事をしようと思いました。それぞれの立場で頑張る人がいないと何も進みません。

僕が考える役場にしかできないこととは、町としての指針を示して、いろんな人との合意形成をつくることです。そのために、島に暮らしている人が何を考えているか、普段から膝を突き合わせて考えることが重要です。

情報は自分から取りに行くことを心がけました。待っていても来ません。頑張っている人に話を聞いて、何かをする時に、誰と繋げばいいか、どういう人とマッチングできるか、常に頭に入れました。

やっぱり、駆りたてるワクワク感とか、面白そうっていうモチベーションが大事なんですよね。やらされてる感、義務感、使命感だけだとなかなか続きません。だから、いろんな人と夢を語り合いながら組み立てていくんです。

関わる人を全員ファンにしながら進む

役場の中で企画係になり、移住対策の仕事をするようになってから、ものごとがどんどん加速するようになりました。

異動してすぐ、沖縄で、全国の島々の行政職員が集まる会合がありました。そこで地域の課題について色々話していたところ、自分たちがやろうとしていた「民泊事業」を既にやっているところがありました。福祉課にいる頃から、子どもたちが島外に出てしまった高齢者世代の寂しさ対策と雇用対策の課題を解決するために、民泊事業をやろうとしていたんですね。

民泊をすれば、高齢者は若い人と話せて嬉しいですし、仕事にもなります。また、観光業はもちろん、島の子どもと島外の子どもが交流する教育機会につながったり、島に来た人と一緒に商品開発をしたり、波及効果は大きいんです。

ぜひ一緒にやりたいと言って沖縄を後にして、利尻に戻ったら、役場の自席に一枚のメモが置いてあったんです。そのメモには「沖縄の○○さんより電話がありました。先日の話、本気かどうか連絡をください」と書かれていました。

すぐに電話をして、本気だと話しましたよ。酔っ払って言った戯言ではありません。

すると、2週間後には民泊の事業を本格的に検討するために沖縄と東京から専門家が来てくれて、急ピッチでことが進みました。僕は財源確保だったり、島での合意形成に必死でしたよ。その結果、何とか島外から30人ほどの感顧客を受け入れて、民泊事業の効果検証をすることができました。

それから、島外の人と一緒に何かをすることが、どんどん増えました。国土交通省のやっている「しまっちんぐ」という、島と企業のマッチングイベントに出ると、様々な企業と具体的な事業検討が始まりました。

行政主導ではないまちづくりをするためのプロセスが見え始めた気がします。地元の企業を育てる観点や、リスクを取って主体的に動く重要性などを感じられました。

また、外の人たちと一緒に何かをやるようになって、自分たちだけの力でやろうとしてもダメだとよく分かりましたね。経済にしても、アートにしても、国際的なものにしても、センスがいい人、できる人とやらなきゃ、何年たっても実現しません。

各界に匠がいるんだったら、そういう人たちと協力してやっていく。島の中の人の思いを聞いて、外の人と繋がって、必要な部分でマッチングする。それが、自分の役割なんだと思うようになりました。

「自分たちだけで」という変なプライドを持つよりも、関わる人をみんなファンにしながら実現していけばいいんです。

子どもの教育を中心に描く島づくり

現在は、利尻町役場でまちづくり政策課企画振興係を務めながら、「NPO法人 利尻ふる里・島づくりセンター」の理事もしています。色々言われることもありますが、最終的には利尻島が強くなればいいという一新でやってるだけなので、気にしていません。

色々なことをやっているので、何をしているかわからないと言われることがありますが、僕の中では全部つながっています。シンプルに、利尻島の子どもたちに「利尻島で生まれてよかった」と思ってもらえる教育を提供したいだけなんです。

地元を誇れる子どもを増やす。島に育てられた感覚、島に恩返しをしたいという気持ちを持ってもらう。そうすれば、都会に出て何かを勉強するときも、学んだことを利尻のためにどう生かそうかって、自然と考えると思うんです。

そのためには、かっこいい大人の背中を見せる必要があります。それぞれの分野で頑張る大人の姿が大切ですし、大人の背中を見る子どもの目を育てることも大切です。

今やっていることのひとつは、漁師のかっこよさを伝える取り組みです。利尻の漁師の魅力って何か。自分たちの良さが何かを伝えるために、みんなで話し合っているところです。

また、島の魅力を知ってもらうために、学校教育の中で一つの統一したプログラムを作りたいと思っています。例えば、利尻ではウニや昆布が特産品だといいますけど、海に潜ったことがない子どももいます。山も同じです。

今は、小学校、中学校、高校と、それぞれの観点で島を知る機会を作ったり、キャリア教育を行ったりしているんですが、上下で連携が取れているわけではありません。島として一貫して、どんな子どもを育てたいのか意識して、連携する仕組みを作りたいです。

一貫していることが、「地域全体にお世話になっている」という気持ちを作るんだと思います。

あとは、子どものうちから島外の人と交流することも大事だと感じています。僕も18歳まで外の世界を全く知らなかったのですが、利尻の特徴や魅力を認識するためには、外の人と話すことがすごく大切なんですよね。

若いうちに世界のことやいろんな選択肢の存在を知ったり、夢をみたりしてほしいという気持ちもあります。今は、18歳で島を出る時に描ける夢って、利尻島内での触れ合いの中で見つかるものだけなんです。北海道のことすらよく知らない状態で描くのではなく、広い世界の中で自分の夢を見つけてほしい。

子どもたちに外の世界と交流してもらう意味も含めて、今年度から利尻町公営塾という取り組みを始めます。外の人に来てもらって、キャリア教育や教科の指導をしてもらいます。その中で、利尻島ならではの教育のカタチを作りたいと考えています。

教育を中心にして考えても、仕事を作ることはとても重要です。子どもを大学に行かせるにはお金がかかります。また、もし人数が減って高校が廃校になれば、高校から島外に出す必要が出て、教育費は格段に上がります。そう考えたら、観光対策も、移住促進も、事業の拡大も、全部一貫して大切になってきます。

子どもを中心にして、まちづくりをグランドデザインし直す時期に差し掛かってるんです。利尻をどういう島にしたいか。ミッションを掲げて、さらには、島の人全員で「ひとつの絵」を描くことが大事だと考えています。比喩ではなく、本当の絵です。

何年後にどうなっていたいかを、住民で合意形成を取りながら描く。そうすれば、その未来に向かって近づく中で、何が足りていないか、何をしたらいいか、自分たちで考えて実践していけると思うんです。

みんなで合意することは、何よりも大事ですね。少人数でやっていたら、小さい動きにしかなりません。どんなに大変でも、全員と向き合っていかなければダメ。避けちゃダメなんです。

後々の応援者になる人が敵になってしまったらそれこそ時間がかかります。例えば、全員が前向きな実行者にはならなくても、少なくとも足を引っ張る人がいない状況にすることが大切だと思います。

僕は、利尻島は利尻の人だけのものではなく、日本が、世界が守らなければならない宝だと思っています。自然にも恵まれ、古き良き日本人の人付き合いがたくさん残っています。みんなが守りたいと思うためには、島の人もお互いに歩み寄って、協調していくのがいいんじゃないかなと。

なぜこんなにも利尻島への想いが強いかと言われたら、家族の存在が大きいんだと思います。綺麗事じゃなくて、父も母も妻も娘も、この利尻で生まれているので。家族にも地域の人にも、山にも海にも本当にお世話になったので、みんなで喜びを分かち合いたい。自分の故郷として、利尻島が愛されながら存続していってくれたら嬉しいんです。

あとは、愛娘に「利尻で生まれてよかった。お父さんの子でよかった」と胸を張って言ってもらえるような生き方をしていきたいですね。

 

佐藤 弘人/利尻島をひとつにまとめる

利尻町役場にて、企画振興係を務める。また、NPO法人 利尻ふる里・島づくりセンターの職員も務める。

 

この記事は「another life. 国境離島の暮らしCH」より転載しています。

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