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子どもと一緒にいる時間を作るため独立。「ただいま」と言って入れる居酒屋を。【another life. 国境離島の暮らしCH】

佐藤恵子さん/居酒屋経営

北海道の奥尻島で大衆酒場を運営する佐藤さん。憧れの都会で暮らしていたにもかかわらず、なぜ地元で飲食店を始めることにしたのか。背景を伺いました。

島の外に出て、料理人になりたい

北海道の離島、奥尻島で生まれました。長女で、弟が一人います。母が商店をやっていたので、小さい頃からよく店番を手伝っていました。店番をすれば、商売で忙しい母と一緒にいられるので、それが嬉しかったのかもしれません。

性格は明るかったのですが、おっちょこちょいで、何もないところで転ぶような子どもでしたね。加えて、体が丈夫ではありませんでした。奥尻の病院には小児科の専門医がいなかったので、島外の病院まで通っていたのですが、両親は忙しくて仕事を休めません。そのため、小学校高学年になる頃には、飛行機にひとりで乗って、函館や札幌まで行くようになりました。都会は賑やかで楽しかったですね。高校を卒業したら、島を出ようと決めました。

また、卒業後は調理師学校に進みたいと思っていました。奥尻では、幼稚園から高校卒業まで給食がないので、学校にお弁当を持っていきます。ある時、お弁当箱を開けた瞬間の彩りが足りないと思って、母に「緑のものを入れてよ」と言い始めたことをきっかけに、自分でお弁当詰めをするようになりました。次第に、料理もするようになり、家族が喜んで食べてくれることに味をしめて、将来は料理人になりたいと思ったんです。

都会での生活は合わなかった

高校2年生の時に、神戸にある調理師学校を見学しました。しかし、私は常に鼻炎がひどくて、食べ物の匂いをうまく判別できない状況でした。すると先生に、「料理人になってもたかが知れてるよ」と言われました。

その一言で、やる気が一気になくなってしまいました。将来の目的を見失い、高校に通うのも嫌。進学する気も起きず、それだったら学校をやめ、島から出て働こうと思いました。都会への憧れは依然としてありましたし、田舎特有の人間関係にうんざりもしていたんです。それで、2年の冬に高校をやめて、函館に出ました。

都会での生活は、楽しかったですね。今までほしいと思っていたものが何でもあるんです。ですが、そんな暮らしはすぐに飽きてしまいました。

それまで、島から都会の友達のところに遊びに行く日は、友達にとっても特別な日なので、カラオケなど遊びに連れて行ってくれるんですが、都会に住んでいるからといって毎日遊んでいるわけではないんですよね。私が楽しいと感じていた都会は、特別な日だったからで、日常ではないと分かったんです。また、それまでひとりで暮らしたことがなかったので、最初は寂しかったですね。

それでも、ひとりで飲食店に行くようになると友達ができて、寂しさは紛れました。その後しばらくは目標もなく、なんとなく過ごしていました。付き合っていた人に連れられ、札幌、東京と引っ越し、大都会で暮らすようになりました。東京は人が多過ぎるし、下水の匂いや空気の汚さにやられて、体調を崩しました。

東京では仕事はしていなかったので、ただただ暇でした。物欲もなくて、外に出るのは、飲み物やタバコを買いに行く時くらい。暇すぎてボケてしまうかと思いました。

子どもと一緒にいる時間をつくりたい

24歳の時に、人間関係で色々あったこともあり、奥尻に戻りました。やりたいことがあったわけではありません。ただ、暇でしたし、お金は必要なので、アルバイトをしながら過ごしました。空港のカウンター、郵便局、土木会社の事務など、色々やりましたね。結婚、出産、離婚を経験してからは、子どもを育てるために働きました。

ある時から、弟が立ち上げた水産加工会社で働き始めました。弟は元々大阪にいたんですが、魚が値段の割にあまりにも美味しくないことに気づき「だったら、奥尻の美味しいものを自分が届けてやる」という思いで、会社を立ち上げたんです。私は、家業の手伝いなら時間的に融通が効くので、子育てにいいかなと思ったんです。

最初は、直売所での販売の仕事などをしました。1年ほど経つと、島外に進出するようになり、百貨店の物産展に出展するようになりました。大手の物産展には他の百貨店のバイヤーも来ていて、次第に北海道中の百貨店を回るようになりました。

気づけば月の半分くらいは島外出張で、家にいる時間がだいぶ減ってしまいました。元々、子どもと過ごす時間を取りたいから家の手伝いをしていてのに、これじゃ本末転倒。子どもに寂しい思いはさせたくないと思っていたんですが、子どもに「お母さんが参観日に来ないのは変だ」と言われたので、さすがにこれは仕事を変えなきゃダメだと思いましたね。

島の中に残ってできる仕事は何があるか。そう考えた時、飲食店がいいなじゃないかと思ったんです。ただ、働きたいと思うようなお店がなかったので、自分で立ち上げることにしました。昔から料理は好きでしたし、奥尻はお店の種類があまり多くないんですよね。メニューも同じだし、飽きてしまう。それなら、日替わりでおばんざいを出して、飽きないような飲食店を作ればいいんじゃないかと思ったんです。

それで、居酒屋を立ち上げて、ランチと夜の営業を開始しました。最初は適切な値付けが分からないし、経営状況の波が激しかったですね。やっていけるのか不安を感じながら、軌道修正をしながらやりました。

大きな変更は、メニューをなくしたこと。メニューを用意すると、そのためにいろんな食材を揃えなければならなくて、どうしても食材のロスが出てしまうんです。それなら、あるものを活用して、毎日作る料理を変えればいい。その日の気分で料理を考えながら、お客さんからリクエストがあれば、それに近いものを作れるようにしたんです。

「ただいま」と帰ってくる場所

現在は、居酒屋を立ち上げて、3年経ちます。もう一店舗、フェリーターミナルの前でも食堂を始め、2店舗でやっています。居酒屋をやっていると夜は遅くなってしまうので、子どもとの時間は想像以上に取れませんでした。それでも、出張に出ているわけではなく家にはいるので、毎日顔は合わせますし、良かったと思います。

私のお店は、基本的には地元の人や仕事で来ている人向けにやっているので、観光客の方が来ると、島ならではのものが食べられなくてびっくりするかもしません。とはいえ、アスパラとか山菜とか、地元で採れる野菜がある時期は、なるべく使うようにしています。手間はかかるんですけど、やっぱり旬のものって味も香りも全然違うんですよね。

テーブルの席よりも、カウンターが賑わっていますね。3,4人できてもみんなでカウンターで飲んでいるようなお店です。やっぱり、常連の人が来てくれたりとか、美味しいと言って帰ってもらえるのは嬉しいですね。「ただいま」と言いながら店にきて、ご飯を食べてもらう。そんな場所にしたいと思っていましたから。単身で島に来た人や、料理をつくる時間がないような人にも、お弁当のようなカタチで料理を持ち帰ってもらうこともあります。

今年からは新しい取り組みとして、高校生のお弁当をつくる制度も始まります。島外から高校生に留学に来てもらう取り組みを始め、初年度の今年は5人の高校生が住み始めました。民宿に住んでもらい、昼ごはんは島の飲食店が週替りでお弁当をつくるんです。

私は、プラスチックの容器ではなくて、お弁当箱でつくることに決めています。留学って、親元を離れて島に来て、やっぱり寂しい思いもあると思うんです。そういう子たちに、「ちゃんと受け入れてくれる人がいるだよ」ということを伝えられたらと思います。お弁当を食べて、午後からも頑張って欲しいですね。

島の人口減少を抑えるうえで、留学制度は良い取り組みだと思います。3年間奥尻で過ごした子たちが、島といい関係性を築いてもらえたら嬉しいですね。

島で暮らす人が増えてほしい

島に住む人が増えてほしいとは常々思っています。飲食店をやっている以上、人口減少は死活問題ですし、自分の生まれ育った場所なので元気な町にしたいという気持ちがあります。

もちろん、島の生活に不便なところがないわけではありません。病院はあるけど、小児科とか産婦人科などの専門医はいないので、出産時期は島外に出なければならくてお金がかかりますし、子どもが体調悪いときやちょっとしたとき、不安はあります。惣菜屋さんのようなものもないので、食べたいものは自分でつくらなければならない手間もあります。

あとは、島の外から来た人は、周りからの干渉に驚くかもしれないですね。私は島育ちなので慣れてしまいましたが、みんな周りのことを気にしているので、その距離感が苦手な人には難しいかもしれません。

それでも、私は都会で生活をしてみて、奥尻の良さが身にしみました。人が多くないので、ガチャガチャしていないこと、忙しすぎないこと。加えて何よりも、空気が違います。水も美味しい。夜になると完全な闇が訪れ、まるで星空が降ってくるような景色も見れます。

ここが生活の拠点ですし、子どもの故郷でもあるので、ちゃんと残していきたいと思います。

 

佐藤恵子

大衆酒場「海音」代表を務める。

 

 

この記事は「another life. 国境離島の暮らしCH」より転載しています。

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